コンテナ物語 THEBOX

 街中を走るトラックや近年であれば収納場所としてコンテナを見る機会もあるだろう。

コンテナとは
「荷物を梱包せずに運送するための、軽い金属で作った箱」
(新明解国語辞典 第七版より引用)

この素っ気無い説明の物体が一体何をしたのかそれを語りたいと思う。

コンテナ=物流を変えた箱について関わる人たちの話。

  • 始まりの人 マルコム・マクリーン
  • 輸送の変化 箱に関わる人々
  • コンテナの威力 産業を変えた箱
  • 感想

この四つの枠でこの本について語っていく。

「始まりの人 マルコム・マクリーン」
 1956年4月26日、ニュージャージー州ニューアーク湾から出港するアイデアルX号は、これがコンテナ物流の始まりであった。その船を扱うシーランド社社長であったのがマルコム・マクリーンである。
 彼は1934年に単身のトラック運送会社を設立し、当時のアメリカ州際交通委員会(Interstate Commerce Commission 以下ICCと表記)の規制が強かったアメリカの運送業界をルールの中でどんどん会社を拡大していった。

 ICCは、鉄道、海運、トラック輸送などにおいて自由化を許さず、決まった道決まった重量、決まった品物しか運ぶことを許さず、新規事業者はもちろん、既存の会社が新しい物品を増やすのも弁護士を使い申請を通す必要のある大仕事であった。

 彼が使った手法は既に権利を持っている会社の権利を買う、もし買うのが高ければ借りるであった。この手法で彼は様々な品物とルートを手に入れることで他の運送会社から依頼をどんどん奪っていった。そんな行いは当然他社にダンピングだと訴えられる。
 それに対して彼は買った・借りた権利を組み合わせて使うことで他社にはできないルートの組み合わせでトラック走行距離の短縮により、拘束時間の短縮でコスト削減を実現していた。
 彼は様々なコスト削減に気を配っており、規模が拡大していく中で質の良いドライバーのみを確保することが難しいと知り、ベテランと新人のコンビを作り、教育係を設定した。新人が1年無事故ならベテランにボーナスを出すという方法で教育のモチベーションを持たせていた。

 トラック運送を拡大していく中で彼が目を付けたのが、海運とトラック輸送の組み合わせによるコスト低減であった。当時の海運業は陸上輸送よりも遅いという理由で運賃をトラックや鉄道と比較して低く設定されていた。それを利用し、トラックを船で運ぶことにより運転手の拘束時間の短縮及び、移動距離に対するコストダウンを実現させようとしていた。
 ICCの認可が無ければトラック会社が海運業を行うことはできないが、マルコムは以前のように法律の抜け道を巧みに使い実質的にトラック会社と海運会社を同時に運営することができるようになった。
 彼は最初に考えていた船でトラックをそのまま運ぶという計画を変更した。トラックそのものではなく荷物を詰んだ箱、つまりコンテナだけを船に乗せて運びそのまま着いた港でトラックに載せ替えることで更にコストダウンができると考えました。
 当時、輸送用の箱というモノは存在していましたが貨物船に適したコンテナは存在しておらず流通もしていませんでした。
 今では当然の船に積み込むためのクレーン等の設備が用意してある港もありませんでした。そのためマルコムは荷物を運ぶための全体のシステムを変更し、行動を変えていくという発想と行動力が当時としては画期的な発想でした。
 

彼についてはここで区切り次の話題に移ります。

「輸送の変化 箱に関わる人々」
 コンテナが主な貨物になる前はクレーンではなくどうやって荷積みを行っていたか。答えは人力である。荷役業務は危険で重労働だったが工賃が高く1951年のニューヨーク湾で5万1千人、ロンドン湾に5万人の湾港労働者が登録されていたとされる。どの程度高かったと言えば1950年末のある報告によれば「海上貨物輸送にかかる経費の60~75%は船が海にいる間ではなく波止場にいる間に発生する」とある。そんな状況では船そのものに対する投資などはほとんど意味がなかった。

 そんな中でコンテナというシステムは湾港労働者を激減させてしまう。ある意味当然で1個1個が数トンにもなる荷物を人力で動かし陸から船に搭載することなど不可能だったからである。
 それを黙っている労働者達ではなかったが、作業班の半分が働き、もう半分は休むという勤務態度や充実した福利厚生そして血縁による世襲などが共産主義的とみられた為批判を受けて、労働者の削減とそれに伴う機械化を受け入れた。

 湾港労働者の問題は輸送に関わる一つの問題でしかなかった。荷主からすれば工場や農園から荷物を発送し、依頼先まで到着するというトータルのコストを削減しなければコンテナのメリットを最大限利用しているとは言えない状況だった。湾港にたどり着くまでのコストつまり、陸上輸送がネックだったがICCの規制は中々緩和されずコンテナの威力は限定的であった。

 コンテナ輸送を一気に伸ばす出来事が発生する。ベトナム戦争である。アメリカ軍は物資不足による危機に陥っていた。
 原因は輸送に関する遅さと煩雑さである。コンテナを採用する前は物資の荷下ろしに時間を取られ、更に港から前線に送るまでトラックなどの詰め替えによるタイムロスが深刻であった。船から武器弾薬を下す作業だけで10日から30日ほどかかっていた。また降ろした荷物を速やかに運ぶことが出来ず、野ざらしにされ現地住民や南ベトナム軍による盗難が多発していた。
 この時物資のスムーズな輸送の為にコンテナが活用できるとマルコムは海軍に売り込んだ。何とか海軍大将を説き伏せ、軍にコンテナ輸送が採用されることになった。
 運用当初こそ、一つのコンテナに様々な種類の物資を詰め込み現地での分別作業が発生した。しかし三つのC「一つのコンテナ、一つのカスタマー(宛先)、一つのコモディティ(品目)」を合言葉に運用方法を理解してからは高い稼働率が実現した。
 この時採用されたのが、コンテナ自体の管理コンピューターによる延滞防止であった。輸送に使われたコンテナは前線で便利な倉庫として使用される場合があったが個別に返却を要求し、遅れた場合は延滞料金を回収していた。
 初航海から約10年、軍という大きな後ろ盾を得ることでコンテナによる物資輸送は飛躍していくことになる。

「コンテナの威力 産業を変えた箱」

 コンテナは産業の位置関係を激変させた。それ以前は運送業、卸売業、流通業は湾港の周囲で存在することが大きな利点であった。ある意味で港から以後の内陸地は「属国」と例える地政学者もいたほどであった。港で一度物流をせき止めそこから改めて内陸地に送り出していたからである。

その流れはコンテナの普及及び湾港の機械化大型化によって変わっていった。
 大型クレーンによって高速、大質量の輸送が可能になってからは港は物資をせき止める関所ではなく、ただの通過点になってしまった。それは産業の形をも変えてしまうことを意味していた。

 輸送に関わるコストが下がるということは生産コストの低さを基準に土地を選べるということである。港の近くに工場や倉庫を作る必要はなく、もっと言えば生産拠点を国内に限定する必要もなくなった。
 例えばバービー人形は、1950年代から既にアメリカ国内での生産ではなく、日本の工場で作られていたがその後、台湾、中国へと工場を移した。
 その結果、人形の型はアメリカ製、工場の設備は日本やヨーロッパ製、服の繊維は中国製、ボディの樹脂は台湾製と材料の「多国籍」化が進んでいった。
 こうした動きはコンテナが普及しだした20世紀後半の賃金の安い地域の発展と大きな関わりがある。
 マルコムが初めてコンテナ船を出港させた1956年にはグローバルサプライチェーンという言葉すらなかった。たった半世紀ほどで世界は激変した。その全てがコンテナだけの影響とは言えないが、コンテナの影響を切り離すこともまたできない。

「感想」

 自分が生まれた時には既にコンテナによる物流が一般的な形であり、特別な疑問を抱くこともなかった。しかしこの本を読んでコンテナが一般的になったのがわずか半世紀ほどのことであり、新しい形ということにとても驚いた。
 港で人力での荷物の積み降ろしはアニメやゲームのイメージで大航海時代の印象が強かったが20世紀の前半でも行われていたというのは意外に感じられた。
 タイトルにもなっているコンテナについては、本書の中でもあまり触れられることはない。精々マルコムが最初に積み込むときに特注した話と、コンテナの規格化によるサイズの話をした程度で箱そのものに触れられることはほとんどなかった。重要なのは箱の「外」のシステムと「中」の荷物であって枠のコンテナは変革をもたらしたにもかかわらず、箱自体は変わっていないというのがとても面白かった。
 既存の構造に挑むというのは存在しないモノを思いつくことではなく、既にあるものを新しいカタチに変える発想を実現することだと思う。

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